これからの時代を生き抜いていくには、自分のアタマで人とは違うことを考える能力が必要になると考えています。人とは違うことを考えるためには、多様なインプットが必要です。人間は「人から学ぶ、本から学ぶ、旅から学ぶ」以外に学ぶことができない動物です。このブログでは、特に若いビジネスマンに向けて、わたしが今読んでいる本やオススメの旅について紹介します。

書評:『慈悲深き神の食卓』

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第111回.jpg慈悲深き神の食卓』 
八木久美子(著)

 カイロの道端で著者は「それまでの生涯で見た一番粗末な食事(パンと小さな一束のネギ)」をしている男性2人から手振りで「いっしょに食べないか」と誘われる。その仕草はごく自然であった。著者の眼は啓かれる。ムハンマドは「二人前の食べものは三人に十分である」と語り残したではないか、と。本書は、「食」を通して、ともすれば誤解のされやすいイスラムの教えの本質に迫ろうとする力作である。

 イスラムの食と言えば、厳しい食物禁忌から連想される制限の多いきわめて禁欲的な食事、あるいは千夜一夜の物語から思い浮かぶ手の込んだ料理の並ぶ贅沢な食卓のイメージが連想されるが、クルアーン(コーラン)は、「食べたり飲んだりしなさい。だが度を越してはならない」と中庸を教えているのである。「同じ食習慣をもつことによって、集団的アイデンティティが成立、存続するのは一般的である」のだから、何もイスラムが特殊なわけではない。日本にも多くの食習慣がある。なるほど、その通りだ。実は、イスラム世界は古くから食について豊かな文化を築き上げてきた。早くも10世紀には専門的な料理書が書かれているのである。そう言えば、フランス料理はバクダードの宮廷料理から始まったといわれていることを思い出した。

 イスラム法は行為規範であって、義務、推奨、中立・許容、忌避、禁止という5つの範疇がある。加えて商人の宗教であるだけあって現実的でもある。有名な豚肉について言えば「責任能力のある者が、ほかにも選択肢がある状況で、豚肉を食べるという行為」だけが禁止されているのである。社会の変化に従いどうすればよいか迷った場合は、法学者に助言(ファトゥワー)を求める。エジプトにはファトゥワー庁があって、ファトゥワー集がインターネット上で公開されており、「輸入肉を食べてよいか」「フランスのような異教徒の国で出された肉を食べてよいか」などの問いに対する判断が掲載されている。イスラム法の世界は生きていて日々更新されている。日本に住むイスラム教徒の問いに対して、グローバルな世界の中で友好関係を築くために必要であれば酒席に出てもいいという助言すらなされているのだ。

 著者は「ハラール・ビジネス」にも鋭く切り込む。ハラール・ビジネスとは、世界に15億人から20億人いるといわれるイスラム教徒市場をターゲットとした、イスラム法に抵触しない商品を扱うビジネスのことである。鍵となるのは「ハラール認証」という制度である。マレーシアの認証機関が有名だが、認証ロゴの付いた商品はイスラム世界で広く流通する。しかし、と著者は問いかける。本来のイスラムの教えは神に禁じられたもの以外は基本的に許される、つまり、ハラールだという考え方である。しかし、認証制度におけるハラールの捉え方は逆である。認証機関が行っているのは、ハラールなるものを括り出すことである。これでいいのかと。重い問いかけだ。さらに、ハラール認証は商品というモノに対して行われるが、本来のイスラム法は行為規範であって行為主体である人間抜きには語れないはずだと。ここで問われているのはイスラム世界が想定していた共同体のスケールを遥かに越えたグローバルビジネスとの関係である。この問いかけは、決してイスラム世界だけに留まるものではないだろう。

 ラマダーン月の断食とは何か。それはムハンマドが神の啓示を受けた特別な月の斎戒潔斎の一側面である。そして、呪術的宗教的な実践としての断食は洋の東西に見られる普遍的な現象である。日本では一部の修行者に限られる断食が、イスラム世界では大衆の中にまだ生きているのだ。加えてイスラムの特徴は斎戒後の夜の食事(イフタール)が豪勢なことである。つまり斎戒と祝祭がセットになり、ラマダーン・テーブルと呼ばれる施しの実践等共食を通じてイスラム世界の絆が強化されるのだ。食べ物は本来神が人間に与えたものであり、食べることは神と向き合うことなのだ。本書を読めば、イスラムは特殊な宗教であるなどといった皮相的な見方は一掃されるだろう。イスラムの普遍性が見事に浮かび上がる。生きたイスラムを知るには格好の本だ。

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