これからの時代を生き抜いていくには、自分のアタマで人とは違うことを考える能力が必要になると考えています。人とは違うことを考えるためには、多様なインプットが必要です。人間は「人から学ぶ、本から学ぶ、旅から学ぶ」以外に学ぶことができない動物です。このブログでは、特に若いビジネスマンに向けて、わたしが今読んでいる本やオススメの旅について紹介します。

書評:『重力との対話』

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第107回.jpg重力との対話』 
天児 牛大(著)

 初めて山海塾の舞踏を観たのは、何年前になるだろうか。あれほどいやでも凝視せざるを得なかった濃密な舞台は、67年の人生の中でも数えるほどしか観た覚えがない。その山海塾の主宰者、天児牛大の半生記が初めて出たと聞けば、これはもう読むしかないではないか。そういえば、東京都現代美術館で6月28日まで開かれていた素晴らしい展覧会、「山口小夜子 未来を着る人」にも、山海塾との刺激的なコラボレーションが展示されていた。

 Ⅰ部は半生記。海と太陽が溶け合う海浜で育った天児は、高校のダンスパーティのとき「意外にモダンだった」母親から初めてダンスステップを教わる。1日で大学予備校をドロップアウトして俳優養成所に通うも居場所は見つからない。ただ、ダンスのレッスンだけはなぜか欠かすことがなかった。日生劇場の大道具アルバイトで過ごした舞台漬けの毎日。71年、ゆるゆるとフローティングしていた天児は、麿赤兒に出会い大駱駝艦の創設に参加、土方巽や大野一雄にも刺激を受け、75年、山海塾を立ち上げる。素型を大切にする天児は、1年ほど基礎訓練をつづけ4人の仲間を得て旗揚げを行う。山海塾も天児という芸名も麿の命名だ。しかし、処女作「アマガツ頌」に納得できなかった天児はやり残した課題を熟成させ、78年に「金柑少年」を世に問う。天児は「子どものときに感じた生命の有限性に対する不安」をこの作品に投影したのだ。同世代であるだけに、天児の浮遊感(フローティング)にはとても共感できる。

 ある偶然の出会いがきっかけで、山海塾は80年にパリへと飛躍する。丸1年の欧州キャラバンの後、帰国した日本で肩すかしを食った天児は欧州に戻る。「いまある勢いを断ち切りたくない」。結果的に有名なパリ市立劇場から寛大なオファーを授かる。85年にシアトルで創立メンバーの1人を事故で失った天児は1年近く自問自答をしつづけ、オマージュの意味もこめ「卵を立てることからー卵熟」を発表した。その後、天児は、パリからほぼ2年おきに斬新な新作を送りだしつづけている。若かりしころのノートの表紙に書いた「なにかを成立させることよりも、成立させたくなるなにものかにむけて」という創作衝動が原点にある。「ぽつりぽつり、心の器に滴り落ちる疑問の雨粒が尽きることはない」。

 Ⅱ部は、舞台公演にむけての小文や古いノートのデッサンから始まる。何という自由で伸びやかなデッサンだろう。見ているだけで、身体が動き出しそうだ。ダンスという言葉の原義は、伸ばす、引っ張る、引きずるということ。人が立つこと、動くことは重力との対話にほかならない。「橋は対岸へ行くために渡るのではない、川の正面と向かいあうために行くのだ」という画家の言葉を引いて、天児は劇場を「橋の役割と同じような場」としてとらえるのだ。

 Ⅲ部は、省察。「生死とは、時間とは、人の身体とは、なにか」。そして天児は、人類の文化の根っこに「共通点」や「共時性」を見出す。「ある種のシンクロニシティが潜むのではないか」と。劇場を「無音であり、闇であり、沈黙の空間」と指摘する鋭さ。稽古場には鏡が1枚もない。「意識や体感への集中こそがなによりも大切」だから。振付けにおける対面性や背面性(時間の遠近をともなう鏡)の問題も面白い。そして、天児はこう結ぶ。「踊り手、音楽、美術、衣装、照明。様々な要素が個別に観客の眼にとびこんでくるのではなく、そのすべてが中空で溶けあい、ひとつの時空(ブリッジ)を劇場に現前化」させたい、「劇場という非日常の空間に、美しい弧を描き仮想のブリッジが築かれる。舞台上から発信する力と観客の受け止める力がちょうど真ん中で睦みあう。そんなブリッジを現前化」させたいと。舞台同様痺れる本だ。巻頭に置かれた写真も粒揃いで楽しめる。

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