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記者としての取材や編集者としての仕事の中から浮かんだふとした疑問やトピックをご紹介。裁判や企業法務、雑誌・書籍を中心としたこれからのメディアを主なテーマに、一歩引いた視点から考えてみたいのですが、まあ、精密でない頭の中をそのままお見せします。

ゴースト考----江川紹子さんの論考から

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 まず、この記事をお読みください。

 彼はなぜゴーストライターを続けたのか〜佐村河内氏の曲を書いていた新垣隆氏の記者会見を聴いて考える

 違う、と思います。江川さんは、ゴーストライティングをやったことがないのでしょうか。

 ゴーストは、確固たる自分のアイデンティティを持っています。でないとできない仕事です。
 なぜなら、ゴーストは発注元の意図に合わせ、狙った効果を最大限発揮できるよう、自分の技術を投入する、できるからゴーストとして働けるのです。自作、つまり自分の表現意図と自分という表現者を同一視するのとは全く違う心理で仕事を進めるものです。


 ゴーストに要求されるものは技術のみです。ゴーストもそれのみで応えます。


 ゴーストが仕事をするとき、そこにあるのは、流れに沿ってプロットを作り、緩急をつけ、盛り上がりを設定し、訴えたいテーマを十全に聴衆、読者、視聴者に伝えるための緻密な計算だけです。逆に言えば、だから結果的に完成度の高い作品ができ、多くの人の心を打ったのかも知れません(私は、佐村河内作品を聞いたことはないので、実際の曲については評価できません)。

 そういう観点から新垣氏の会見を見ますと、非常に誠実なものであったと私は感じています。彼は、ゴーストの冷静さを全く崩していないからです。

 ゴーストは、作品が多くの人に受け入れられるのを見て、そっと自分で乾杯するのです。

 私は、宗教の「カルト信者」のライフヒストリーを聞き取る取材を継続していたことがあり、彼らのカルトに走る心情や、考え方の回路、カルト内での依存関係などを整理していました。

 江川さんの言うカルト信者とは、佐村河内・新垣関係でいえば、佐村河内氏に対して新垣氏が自己同一化している状態を意味します。そのような関係であれば「佐村河内氏の作品は自分の作品である」という思いが生まれ、愛着が生まれますから、佐村河内氏だけが称賛されれば、自己と引き裂かれるような感情が生まれてきます。嫉妬感情です。そこまで行けば、感情が爆発して暴露に走るということはありえます。

 しかし、今回の新垣氏の態度には嫉妬は感じられません。さらに、江川氏は新垣氏の会見をこう評価しています。
>あまりに浮き世離れしていて社会性に乏しく、音楽の世界だけで生きてきた、
 そうでしょうか。私はそうは思いません。自分の名前が刻まれた、現代音楽のちゃんとした作品もある新垣氏は、作家と職人のふたつの顔を立派に使い分けられる人です。そんな人が、佐村河内氏に「裏切られた」感情を抱く理由が思いつかないのです。

 ただひとつ、それがあるとしたら、金銭問題のこじれでしょう。(〔追記〕これは、本件ではなく、一般的な「嫉妬感情のからまない暴露事件では」という、「一般論」として書いております。言葉足らずで読者の方に誤解を与えたようで、失礼いたしました。

 新垣氏が今回の告白に及んだ理由「ソチオリンピックで高橋選手が『偽りの曲』で踊るのに堪えられなかった」が本当なのかどうかは、私にもわかりません。しかし、自らのアイデンティティ、制作意図に合わせた計算による作品作り、作品として仕上げる技術、高い仕事の質。

 ----これらを「社会性」と呼ばずして、何と呼ぶのでしょうか。

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