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クレヨンから消えた色

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既に気がついている方にとっては「何をいまさら」的な話なのですが、最近タレントさんが発言したことを受けて、クレヨンに関するある変化が話題になっているようです:

クレヨンの「肌色」は人種差別? 乾貴美子がブログで疑問呈す。 (livedoor ニュース)
クレヨンから「はだ色」が消滅 理由は「人種差別に繋がるから」 (J-CAST)

クレヨンや色鉛筆などの中から「はだ色」という呼称が消えつつあることについて。はだ色は文字通り「肌色」であり、薄い桃色をした肌を持つ人が日本人の中に多かったことから、似たような色を「はだ色」と呼んでいるわけですね。しかし当然ながら人間には様々な色の肌があるわけで、ある一色だけを「肌の色」と呼んでしまうことには問題があるという意識から、10年ほど前から徐々に変更が行われてきたようです。

つい先日、この「はだ色」をめぐって娘とちょっとしたやり取りがありました:

娘: お父さん、「はだいろ」って「肌の色」ってこと?
僕: そうだよ。クレヨンにあるでしょ。
娘: でも、肌っていろんな色だよねー。私のはこれだけどー。なんでこれが「はだいろ」なの?
僕: うーん……昔の日本ではね……

娘はまだ保育園なのですが、既に「はだ色」が薄い桃色であることについて疑問を感じているようです。考えてみると、娘が通う保育園には以前から外国の子供たちも通っています。以前はロシア語しか話せないお子さんもいらっしゃって、壁には「ロシア語では○を~と言います」というメモが貼られ、「ウラー!はロシア語で万歳!の意味なんだよー」と娘から教えてもらうことまであったほど。また現在の住所の近くには大学が・実家の近くには米軍基地があり、様々な肌の色の人々とすれ違う機会があること、さらに家族で海外旅行をした経験があることなどから、何となく「自分とは違う見かけの人がいる」と理解している様子です。

甘いと言われてしまうかもしれませんが、「はだ色」という呼称を使うことが直ちに差別意識を表すものだとは思いません。僕らが子供のときは普通に「はだ色」が用いられていたわけで、慣習として何の疑問もなく口にしてしまったり、ノスタルジーを感じるということはあるでしょう(だからと言って無意識のうちに他人を差別することが許されるものではありませんが)。しかし保育園の女の子でも「世界にはいろいろな人がいる」と理解できるぐらい、日本社会のグローバル化は進んでいます。もはや「肌の色だから『はだ色』」という発想は余計な混乱を招くだけでしょう。

その意味で、個人的には「はだ色」が別の呼称になることは賛成です(放送禁止用語のように厳しいルールとするのではなく、あくまでも企業の自主的な行動のレベルで)。ただしあえて「はだ色」を残して、それが意味するものについて子供たちに教えたり、考えさせたりするということも良いかもしれません。逆に単に名前を消してしまって終わり、という臭いものに蓋的な態度では、また似たような問題が生まれてくるでしょう。「なぜ日本には「はだ色」という発想があり、いままで生き残ってきたのか。なぜいま問題になったのか、他国や他の分野で同様な問題はないのか――などなど、様々な側面について考えるようにしなければならないと思います。

【○年前の今日の記事】

「しきる」だけで十分なのか (2008年4月16日)
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