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【シーズン4 第11話】ヨルダンとイスラエル

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 「玉突きのようなパレスチナとラビンさん」では、イギリスの中東外交のひとつであるバルファ宣言を紹介しましたが、今回はもうひとつのフセイン=マクマホン協定から話をはじめます。

 「メッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、イギリスは対トルコ戦協力(アラブの反乱)を条件にアラブ人居住地の独立支持を約束した。」 Wikiより

 メッカの太守である「フセイン・イブン・アリー」とあるフセインさんはイスラームの創始者であるムハンマドの孫の長男ハサン(イランの国教であるシーア派12イマーム派の第2代イマーム)の子孫です(アラブ人の名前には苗字がなく、「名+父の名+祖父の名...」のように父祖代々の名を繋げて名とする)。

 フセイン・イブン・アリーさんはいわゆる名門中の名門の家系であり、イギリスから見るとアラブの代表的な存在だった訳です。イギリスは彼にオスマン帝国に勝利したらアラブの独立国家を支援しよう、と持ちかけたのがフセイン=マクマホン協定(McMahon letters)で、現在のエルサレムはオスマン帝国の領土ですからイスラエル建国後のパレスチナ問題の大きな原因となりました。

 フセイン・イブン・アリーさんはオスマン帝国に対するアラブの反乱ロレンスさん(映画『アラビアのロレンス』の主人公)などの支援もあり成功し、ヒジャーズ王国(メッカ、メディナ、アカバを含む)が建国され国王となりました。

 しかし、ヒジャーズ王国はイブン・サウードに攻め込まれ、1925年にサウード家の領土(サウジアラビア)となりましたが、イギリス軍が防衛するアカバのみはヨルダンに併合されました。オスマン帝国との戦い(第1次大戦)の後にイギリス統治領となったパレスチナ(現在のヨルダンを含む)は、ヨルダン川の西のパレスチナと東のトランスヨルダンに分割されました。

 フセイン・イブン・アリーさんはキプロスに亡命し、次男のアブドゥッラー・イブン・フサインさんが1923年ヨルダンの国王となりました(三男はファイサルさんはお隣のイラクの国王となったが、1958年の7月14日革命で滅亡)。

  1. フセイン・イブン・アリー(ムハンマドの孫の子孫):メッカのあるヒジャーズ王国の国王、サウジアラビアによりメッカは支配されキプロスへ亡命。
  2. 次男のアブドゥッラー・イブン・フサイン(スンナ派):ヨルダン川東側の領土であるヨルダンの初代国王。
  3. 息子のタラール・ビン・アブドゥッラー(タラール1世):イギリス嫌いの2代ヨルダン国王
  4. 息子のフセイン・ビン・タラール(フセイン1世):3代ヨルダン国王、イスラエルヨルダン平和条約締結、交渉相手は「玉突きのようなパレスチナとラビンさん」で紹介したラビンさん。
  5. 息子のアブドゥッラー・ビン・アル=フセイン(アブドゥッラー2世):現在のヨルダン国王 

 ここまで簡単にヨルダンの歴史を紹介しましたが、注目していただきたいのは、3代ヨルダン国王のフセイン・ビン・タラール(フセイン1世)さんです。

 アラビア半島はもともと血族サイロの部族で構成されていたことを「アラビア語と横串刺しイノベータ」で紹介しましたが、各部族でバラバラだったスンナ(慣行)がイスラームのスンナ(慣行)に変わっただけで、今でも部族組織は力強く存在しています。フセイン1世の国王親衛隊は有力ベドウィン部族を中心とする強力な戦力で、当時アンマンを拠点にし、ヨルダン政府を転覆し、新生パレスチナ国家を樹立しようとしていたPLOを追放しました(ヨルダン内戦からミュンヘンオリンピック事件につながる)。

 ヨルダンは「玉突きのようなパレスチナとラビンさん」でも紹介したようにたくさんのパレスチナ難民を抱えており、国王による統治を安定させるためには、PLO(PLFP)の過激な動きは許しがたいものだったのでしょう(ちなみに、その後PLOと多くのパレスチナ難民がレバノンに移ったためレバノンの政治バランスが崩れレバノン内戦へとつながった)。

 「基本的にヨーロッパやロシアでのユダヤ人迫害がなければ、イスラエルは建国されず、NAKBAはなかった訳ですが、イギリスの二枚舌、三枚舌外交(サイクス・ピコ協定を含む)と、さらにはバルフォア宣言などから、パレスチナの地に住む多くのアラブ人は難民となり、ヨルダン川を渡り死海の対岸のヨルダンに移りました。
 さらに、1967年の6日戦争(イスラエルとエジプト、ヨルダン、シリアの戦い)でヨルダンは東エルサレム(【シーズン3 第2話】エルサレムの旧市街からの発想で紹介した旧市街)をイスラエル奪われ、またもやそこに住むたくさんのアラブ人がヨルダン川を渡ることになり、ヨルダンの人口の70%はパレスチナ難民とその子孫になってしまいました。」

 パレスチナ難民だけでなく多数のシリア難民がなだれ込む現在のヨルダンの安定が、フセイン1世時代のようにベドウィン部族との強固な関係で成り立つのか、その他の手段が必要なのかは分かりませんが、ヨルダンの安定が次の世代、その次の世代にもつながることは、この地域にとり非常に重要ではないかと、私は考えます。また、ヨルダン川と死海を境界に隣接するイスラエルとヨルダンは平和条約を結んでおり、スンナ派国家であるヨルダンの不安定化をイスラエルも望んでいないと思います。

 また、2016年5月のエルサレムポストによると、ヨルダン国王は以下のような新首相を任命したそうです。(歴史の歯車が少しづつ動き出しているのでしょうか...)

 「ヨルダンのアブドラ国王が国会を解散し、新首相にアルムルキ氏を指名。同氏はイスラエルとの関係改善の推進者として知られ、今後の両国関係の改善や協同プロジェクトの推進が期待できる。」


【シーズン1】デジタルのマーケティング
 http://blogs.itmedia.co.jp/CMT/1/

【シーズン2】マーケティングクラウドとマイクロサービス
 http://blogs.itmedia.co.jp/CMT/2/

【シーズン3】イスラエルのオープンイノベーション
 http://blogs.itmedia.co.jp/CMT/3/

【Coffee Break】
 https://blogsmt.itmedia.co.jp/CMT/coffee-break/

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